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    (出典 www.asahicom.jp)



    1 朝一から閉店までφ ★ :2021/01/06(水) 19:17:43.02

    語られない「コロナ嗅覚異常」本当のおそろしさ
    一生回復しないことの影響はあまりに甚大だ

    The New York Times 2021/01/06 11:00



    (出典 tk.ismcdn.jp)

    ミッシェル・ミラーさんは、コロナに感染した後、キッチンに充満したガスのにおいに気がつかなかったという(写真:Joshua Bright/The New York Times)


    新型コロナウイルス感染症の典型的な症状の1つに嗅覚の低下がある。これが最初の症状となる患者もいれば、唯一の症状となる患者もいる。そうした患者では、あたかもスイッチがパチンと切り替わったようにいきなり嗅覚が消え、多くの場合は味覚も失われる。

    たいていの患者は通常、数週間以内に回復し、嗅覚と味覚を取り戻す。が、嗅覚と味覚が失われたままとなる患者も一部には存在する。これらの感覚がいつ戻るのか、そもそも戻るのかどうかは医師にもわからない。

    新型コロナが持続的な嗅覚消失を引き起こす仕組みや治療法はほとんどわかっていない。しかし感染者は世界中で増えているため、専門家の中には、パンデミックで永遠に嗅覚や味覚を失う人が大量に出てくることを危惧する声がある。




    本当の恐ろしさが理解されていない

    においは味と食欲の双方と密接につながっており、嗅覚が失われるとたいていは食事の楽しみも奪われる。しかも、嗅覚が突然消失すると精神面や生活の質にも深刻な影響が出るおそれがある。

    各種研究によると、嗅覚消失は社会的な孤立感や、喜びを感じられなくなる無快感症(アンヘドニア=うつなどの中心的症状の1つ)と関係している。記憶や感情はにおいと密接につながっており、嗅覚系は精神面の健康に重要な役割を果たしているが、この点はあまり認識されていないとハーバード大学医学大学院のサンディープ・ロバート・ダッタ准教授(神経生物学)は話す。
    https://toyokeizai.net/articles/-/401593?display=b

    https://toyokeizai.net/articles/-/401593?page=2
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    大豪雪で立ち往生「電気自動車」ならどうなった? 暖房は30時間が限界


    NO.9152333 2021/01/05 12:13
    大豪雪で50時間立ち往生、「電気自動車」ならどうなった? 暖房は30時間が限界、凍死の危険も
    大豪雪で50時間立ち往生、「電気自動車」ならどうなった? 暖房は30時間が限界、凍死の危険も
    年の瀬の日本を襲った突然の大豪雪。

    多くのドライバーが寒さに震え、空腹と寝不足に苛まれながら夜を明かした。

    もしも、同じ状況でEV(電気自動車)が立ち往生していたら――。

    そこには、世界的なEV化の波にさらされる日本が熟慮すべき課題があった。

    氷点下まで冷え込んだ深夜の高速道路に、ヘッドライトの灯りが一直線に並ぶ。

    どの車のルーフにも、真新しい雪がこんもりと積もっていた――。

    日本海側を中心に降り続いた大豪雪の影響で、昨年12月16日の夕方から、関越自動車道では大規模な渋滞が発生。

    一時は上下線合わせて2千台を超える自動車が立ち往生する事態となった。

    除雪のために自衛隊まで出動し、すべての車が移動を終えたのは52時間後のことだった。

    新潟県南魚沼市消防本部の若井高志・消防次長が振り返るには、「2019年は雪がほとんど降らなかったんですが、今回は県内全域がいきなり豪雪に見舞われてしまい、除雪作業が間に合わなかった。立ち往生の現場からは、吐き気や動悸、脱水といった症状を訴える方々を救急搬送しています」

    GoToトラベルが一時停止されたとはいえ、仮に、大雪のタイミングがわずかでもずれていれば帰省ラッシュのど真ん中。

    被害がより拡大していたことは明らかだろう。

    それに加えて、こんな疑問も生じる。

    このところ何かと話題のEV(電気自動車)が、同じように立ち往生したら一体どうなっていたのか。

    「車内で暖房を使えば走行可能距離も短くなるし、充電スタンドだって限られている。この辺りでEVに乗るのは相当、勇気がいりますね」(同)

    目下、菅政権は2030年..

    【日時】2021年01月05日 05:56
    【ソース】デイリー新潮
    【関連掲示板】


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    人肉のクッキーを作った81歳のおばあさん 裁判前にコロナで亡くなる


    NO.9155698 2021/01/06 16:10
    人肉クッキーを作った81歳の殺人鬼おばあちゃん 裁判前にコロナで死亡 ロシア
    人肉クッキーを作った81歳の殺人鬼おばあちゃん 裁判前にコロナで死亡 ロシア
    ロシアの連鎖殺人魔であり、残酷さの極みを見せ、最終的に監獄に収監された老人が裁判が終わる前にこの世を去った。

    彼女は法に基づいて裁かれる前に新型コロナウィルスを避けることができなかった。

    ソフィア・ジュコバ(Sofia Zhukova)という名前の81歳の老人は2005年に当時7歳だった幼い少女を殺害し、遺体を残忍に毀損した容疑を受けた。

    また、他の都市で清掃員として働いていた52歳の男性と80代の女性知人1人を殺害した容疑もある。

    これとは別に、地元警察は米国での殺人事件4件がジュコバと関連があると見て調査中だった。

    現地メディアによると「祖母殺人鬼」ジュコバは犠牲者たちを残酷に殺害しただけでは足りず、殺害過程で得た人肉を路上にばらまいたり、これを利用して菓子を作って隣人たちに配ったという無惨な主張が隣人たちの証言が得られた。

    ある隣人は「普段近所の人に親切ではなかったお婆さんが子どもたちのためにクッキーや食べ物を作って配ると言った時、おかしいと思った。お婆さんが持って来る食べ物はいつも肉料理だった。ゼリーのようなデザートもあった」と話した。

    ジュコバの自宅からは遺体の一部が発見されたが、これについては「管理人だった男性が私を強姦した。自分ができることはこれしかなかった」と主張した。

    遺体毀損は認めたものの、人肉を食べてはいないと否定した。

    ジュコバの裁判は2019年に予定されていたが、突然2005年の少女殺害事件や2013年の80代女性殺人事件に対する自白を全面的に撤回して否定し始めたため延期された。

    裁判は1年以上延期され、今年開かれる予定だったが、連続殺人魔も新型コロナウィルスを避けることはできなかった。

    当局によると、ジュコバは収監中に新型コロナウィルス陽性の判定を受けた。

    治療のために刑務所から病院に運ばれたが、現地時間で先月29日に死亡した。

    【日時】2021年01月06日 15:39
    【提供】ゴゴ通信


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    【聖地はドイツにあった】マツダ・ミュージアム



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    マツダファンのメッカ

    textJames Disdale(ジェームズ・ディスデール)
    translator:Takuya Hayashi(林 汰久也)

    マツダ100周年を祝うなら、広島への旅行がちょうどいいのではないか。そう思われるかもしれないが、実はそうではない。広島には100年前からマツダの本拠地があったが、その歴史に浸るには、ドイツのアウクスブルクに行かなければならない。

    そこには、世界最大かつ最高のマツダのコレクションを誇るフレイミュージアムMazda Classic Automobile Museum Frey)がある。50台以上の実車が展示され、100台以上が倉庫に保管されている。そのすべてが走行可能というから驚きである。

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    マツダ・ルーチェ

    しかし、すべてはクルマではなく、コルクから始まった。1920年、松田重次郎が広島でコルクを製造する東洋コルク工業株式会社を設立。松田は1年ほどで工作機械の製造に進出し、やがて社名から「コルク」を外した。

    1930年には、初の自動車が登場し、マツダの名前が初めて使われた。マツダ・ゴーは三輪商用トラックで、基本的にはオートバイピックアップを組み合わせたものであった。

    フレイミュージアムには、1950年製の後期型のゴーが展示されているが、グループBラリーカーのRX-7レプリカとともに、めったに走らない2台の展示車のうちの1台となっている。その排気音のせいで、スロットルを開けた瞬間に近所の人たちが怒りの声を上げて議会に通報してしまうからだ。

    国内でのゴーの成功を受けて、マツダは1940年に2ドアの小型セダンの開発に着手した。しかし、日本は第二次世界大戦に突入したため、試作段階を通過することなく、工場は軍需工場となってしまった。マツダが次の自動車を発売するのは、20年後のことであった。

    1945年8月6日、広島はアメリカによる原爆投下の標的となる。同15日に終戦を迎えたものの、マツダの工場は大きな被害を受け、残った工場も仮設の病院として使われた。しかし、ゴーの生産は年末に再開され、1949年には初めて海外輸出が開始された。

    その後の15年間で、マツダは商用車メーカーとして成長し、1950年代末には約30種類のピックアップやバンを販売していた。そして1960年には、同社初の乗用車であるR360が登場した。軽自動車規格の2+2のクーペは瞬く間にヒットし、小型車クラスでは日本の最大手となった。


    ロータリーエンジンの登場

    R360のデビューから1年後、マツダドイツのNSU社からワンケル・ロータリーエンジンライセンスを取得。開発に数年を費やした後、1967年コスモスポーツの生産を開始した。ミュージアムの発起人であるウォルターフレイの、マツダへの情熱の火付け役となったクルマである。

    展示されている110S(コスモスポーツ)は、彼がコレクションのために購入した最初のクルマだ。1980年ニュージャージー州のディーラーから入手し、ドイツでフルレストアを受けた。

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    マツダRX-7

    1960年代、マツダファミリア800をはじめ、ベルトーネスタイルの大型セダンエステート、クーペのルーチェなど、主力車種を次々と投入していった。欧州を皮切りに、1970年には北米への輸出を開始した。

    ブランドの中心となったのは米国で、特にロータリーが人気を博した。1973年マツダはこのエンジンを搭載したクルマを25万台生産し、世界のメーカートップ10入りを果たした。

    しかし、この年は石油危機の年でもあり、その2年後には米国で触媒コンバーターの装着が義務化された。マツダは多額の借金をしなければならず、結局、1974年フォードが33%の株式を取得することに合意した。

    この提携により、マツダフォードの豊富な予算を活用し、フォードマツダの技術力を活用することができた。323や、最近では2、3など数多くのモデルが共同開発された。マツダ2015年フォードの株式を買い戻して独立したが、その後間もなくトヨタハイブリッドパワートレインの開発に重点を置いた提携を結んだ。

    マツダが独自の道を歩んだプロジェクトの1つにロードスターがある。米国人ジャーナリストのボブ・ホールと当時の山本健一社長が発案したこの軽量2シーターは、1989年に発売されて以来、その存在感を示し続けてきた。フレイミュージアムには、179台しか生産されなかった希少な2代目(NB)ベースのクーペをはじめ、多くのロードスターが展示されている。

    マツダは長年にわたって革新を続けてきたが、斬新な圧縮着火式ガソリンエンジンスカイアクティブX」をはじめ、最近ではプラグインハイブリッドの発電機としてロータリーを復活させるという話もある。

    しかし、マツダが将来どのようなモデルを作るにしても、フレイミュージアムには常に展示スペースがあるということだけは確かだ。


    ウォルター・フレイのコレクション

    ウォルターフレイのコレクションは、今から40年前の1980年に購入したコスモから始まった。アウグスブルクに最初のマツダディーラーオープンした3年後のことだ。

    長年にわたり、世界中から購入したもので少しずつコレクションを増やしてきたが、きちんと展示できるようになったのは2017年のことだった。フレイとその息子、ヨアヒムマルクスは、1897年に建てられた路面電車の車両基地を購入し、全面的に改装してマツダに関するあらゆるものを展示する場所とした。

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    マツダREPU

    現在は約50台のクルマが展示されているが、150台近くのコレクションの中から定期的に展示車両を変更しており、その数は今後も増え続けるだろう。しかし、恒久的に展示されているのは、ウォルターの情熱の始まりとなったコスモである。

    ここからはミュージアムに保管・展示されている車両を紹介する。

    1960年 マツダR360

    1960年に発売されたマツダ初の乗用車R360は、瞬く間に軽自動車市場の65%、日本国内の新車販売台数の15%を占めた。356ccの4ストロークエンジンを搭載し、4輪独立懸架式サスペンションを採用。6年間生産された。

    1969年 マツダ・ルーチェR130

    ジョルジェット・ジウジアーロがベルトーネ時代にスタイリングを担当したこのゴージャスなピラーレスクーペは、マツダで唯一の前輪駆動ロータリーであった。128psのツインローターエンジンと4速MTを搭載し、3年間で976台のみが生産された。

    1974年 マツダREPU

    働き者のピックアップトラックに高回転のロータリーエンジンはあまり似合わないが、それでもマツダが搭載を止めることはなかった。米国とカナダでのみ販売されたこのクルマはREPU(ロータリーエンジンピックアップ)と呼ばれ、4キャブレーターのツインローターで最高7000rpmの回転数を誇る。1974年から1977年にかけて約1万5000台が生産され、現在では米国のコレクターの間で珍重されている。


    マイクロバスにもロータリー?

    1975年式 マツダ・ロードペーサー

    ウォルターフレイのお気に入りのロードペーサーは、ホールデンのセダンベースとなっている。トヨタ・クラウンに対抗するため、マツダオーストラリア製の大型ボディに1.3Lのロータリーエンジンを搭載した。残念なことに、このモデルは遅かった上に価格が高かったため、わずか800台しか販売されず、2年後の1977年に生産が終了した。

    1976年 マツダ・パークウェイ・ロータリー26

    おそらく最も奇妙なロータリー搭載車はパークウェイだろう。RX-7のツインローターエンジンを発展させたものを搭載した26人乗りのマイクロバスで、最高出力137psを発揮。最高速120km/hに達した。燃費は恐ろしいものだっただろう。

    1977年 マツダRX-5

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    マツダパークウェイ

    マルクスフレイが英国で入手した、ロータリーエンジンを搭載したRX-5の欧州仕様という希少な1台。元オーナーからオンラインで購入した後、フレイは2週間の休暇を利用して英国に行き、その後ドイツに持ち帰った。このクルマは、彼のコレクションの中でも特にお気に入りの1台である。

    1977年 マツダ323

    ウォルターフレイディーラーを開いたときに発売された323は、マツダがついに欧州に進出する足がかりとなったクルマである。後輪駆動レイアウトで、ライバルとは一線を画していたが、広々としていて運転しやすく、信頼性も高かった。展示されているグリーンの車両は、広島からドイツに送られたショーカーの1つで、現社長をはじめ、多くの来場者のサインが入っている。

    1984年 マツダRX-7

    RX-7専用のコーナーがあり、3つのモデルがそれぞれ1台ずつ展示されている。初期のターボチャージャー搭載モデルは、運転ができなかったフェリックス・ヴァンケルに与えられたものだ。彼は自分の代わりに運転手を雇い、信号待ちで出会ったポルシェとの即興レースによく参加させていたという。


    マツダが起こしたイノベーション

    マツダロータリーエンジン以外にも、さまざまな革新的技術を開発・採用してきた。

    スカイアクティブX

    マツダが開発した圧縮着火式2.0L ガソリンエンジンは、ディーゼルガソリンの長所を併せ持っている。大手企業ではなく、小さなマツダが成し遂げたことに驚きを隠せない。

    四輪ステアリング

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    マツダRX-5

    1987年ホンダが最初に生産を開始したが、1988年に登場したマツダの626 4WSは、はるかに洗練されていた。油圧ラックを電子制御することで、運転席と後輪の間に物理的なリンクを持たせていない。

    アトキンソンサイクルエンジン

    トヨタ1997年プリウスで初めてアトキンソンサイクルエンジンを作ったと主張していたが、実際には1993年ユーノス800(クセドス9)が量産車としては初だった。スーパーチャージャーを使用し、技術的にはミラーサイクルエンジンであったが、基本原理は同じである。

    スーパーチャージャー付きディーゼル

    スーパーチャージャーを搭載したディーゼルエンジンは、当初はトラックに搭載されていたが、1988年カペラ乗用車にも採用された。プレッシャーウェーブ方式(PWS)を採用しているため、通常のブロワーよりもパワーロスが少ないが、2.0Lでは75psしか出なかった。


    水素ロータリーエンジンの開発

    i-Stop(アイ・ストップ)

    ほとんどのブランドがアイドリングストップ技術をサプライヤーから購入していたが、マツダは独自に開発した。エンジン停止時に、どのピストンパワーストロークに入っているかをセンサーで検知することで、他のエンジンよりもスムーズで効率的な再始動を可能にした。

    リサイクルバンパー

    マツダ1992年に初めてリサイクル素材をクルマに採用した。当初はアンダートレーなどの見えない部分にリサイクル素材を使用していたが、2011年には、再生プラスチックバンパーを大幅に推進した。

    水素ロータリーエンジン

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    水素ロータリーを搭載したRX-8の試作車

    マツダは水素を燃料とするロータリーエンジンも開発している。燃焼室と吸気室が分離されていたため、揮発性燃料を使用するにあたり変更は必要なかった。限定的に販売されたが、水素ステーションの不足により普及はしなかった。

    スカイアクティブエンジン

    初代CX-5に搭載されたエンジンは、スカイアクティブGとスカイアクティブDの2種類。14:1の圧縮比(ガソリンでは最高、ディーゼルでは最低)を実現し、同じラインで製造できるため、使用効率と生産効率が向上した。

    外国人社長

    マツダ1996年ヘンリー・ウォレスを起用し、日本の自動車メーカーとしては初めて外国人が社長に就任した。元フォードのウォレスは、雇用を失うことなく収益性を向上させ、人気を博した。スコットランド語訛りの日本語を使ったテレビ広告でも知られていた。

    サットナビ

    サットナビを最初に搭載したのはマツダだ。1990年に日本で発売されたユーノス・コスモオプション設定され、カラースクリーンと衛星リンクのおかげで初めてリアルタイム測位が可能になった。


    モータースポーツの栄冠

    1991年 ル・マン24時間

    1991年マツダは日本企業として初めてル・マン24時間レースで優勝した。トリプルローターの787Bジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーフォルカー・ヴァイドラー)は、ジャガーメルセデス・ベンツプジョーを抑えて栄冠に輝いた。

    1981年 スパ・フランコルシャン24時間

    マツダ24時レースで初めて成功を収めたのは、ル・マン優勝より10年早いスパだった。地元のエースピエール・デュドネがTWRを搭載したRX-7を駆り、2位に2周の差をつけて優勝したのだ。

    1968年 マラソン・デ・ラ・ルート84時間

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    マツダ787B

    初の国際レースとなったニュルブルクリンクの84時間レースマツダは2台のコスモスポーツを走らせた。1台はゴール直前でクラッシュしたが、もう1台はポルシェ911ランチア・フルビアに次いでフィニッシュ。総合4位に輝いた。

    1980~1981年 BSCC

    1980年1981年にBTCC(英ツーリングカー選手権)の前身であるBSCC(英サルーンカー選手権)で、ウィンパーシーはTWR仕様のRX-7を使用して連覇を達成した。2年間のキャンペーンで22レース、19回のクラス優勝を収めた。

    1991年 IMSA GTOシリーズ

    マツダ1970年代から米国のスポーツカーレースを牽引してきたが、最大の成功は1991年のIMSA GTOシリーズでのタイトル獲得である。4ローターのスペースフレームRX-7を使用し、エースであるピート・ハルスマーとプライス・コブの活躍でクラス5勝を挙げた。

    アンドロス・トロフィー2015

    1990年に始まったフランスアイスレースシリーズは、アラン・プロストやイヴァン・ミュラーなどのスター選手を集めて人気を博している。2014/15年シーズンで、3.0L V6、四輪駆動、四輪ステアリングを搭載するマツダ3に乗ったジャンフィリップ・デローがタイトルを獲得した。

    インディ・プロ2000

    1983年から開催されているマツダのワンメイクシリーズは、グラハム・レイホールマルコアンドレッティ、ジェームズ・ヒンチクリフスコットスピードなど、多くのインディカースター選手が活躍するきっかけとなった。エンジン2018年に4ポットが登場するまでロータリーが使われていた。

    1975年 バサースト1000

    マツダは、これまでにも多くのジャイアント・キラー(番狂わせ)をコース上で披露してきたが、オーストラリアで開催された1975年のバサースト1000はそのハイライトとなった。ドン・ホーランドと鮒子田寛はRX-3で総合5位に輝き、V8エンジンを搭載したホールデンのみがロータリーを上回った。

    IMSAシリーズ

    RT24-Pでトップを走り続けるマツダ。IMSAシリーズトップクラスのために作られたこのマシンは、3勝を挙げて2019年ベストシーズンを迎えた。マツダは今年もタイトル争いに参加しているが、2021年は規模を縮小し、1台に絞られる。

    1985~1991年 WRC

    マツダ1985年から1991年までラリーの常連だった。初めはグループBRX-7スタートしたが、グループA323 4WDの方が成功していた。1987年にはティモ・サロネンがスウェーデンで優勝し、1989年にはインバー・カールソンがニュージーランドで優勝している。


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    (出典 news.nicovideo.jp)

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